あるオッサンのブログ

単なるオッサンの足跡です。

今週もまた行ってきました。

きっかけは、

実はラーメンの食べ歩きが好きで、最近では毎週末にラーメン屋に出かけてます。先月末までは緊急事態宣言下ということもあり自粛していたんですが、流石に限界で先週あたりから復活しちゃいました。

食べ歩きを始めてからそうですね、多分4年くらいになるかもしれません。きっかけはよく覚えてないんですけど、10年以上前に一度だけ埼玉のまるしん食堂っていうラーメン屋さんを何かで知り、訪ねたことがあったんです。びっくりしたのは並んでいる人たちの多さもさることながらその時に食べたラーメンの味です。

塩ラーメンなんでしょうか。表現が難しいんですがそれまでに食べたことのないインパクトのある味でした。そのまるしん食堂の味をふと思い出しておいしいラーメンが食べたいな、という気持ちがわいてきたんです。

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多分、これは煮干しラーメン+たまご

どうやって、店を探す?

それで、スマホで調べ始めたんです。「多摩付近のおいしいラーメン屋」とか「稲城市付近のおいしいラーメン屋」でね。そうすると色んなサイトがあって、個人で食べ歩きをしている人の食レポ的なサイトを含め色々ありました。そんなことで見つけた比較的に場所が近そうなラーメン屋に週末になると出かけて行くようになったんです。残念ながら大方が期待外れの所ばかりでした。次こそはおいしいラーメン屋に出会えると思って出かけて行くのですが、一口食べて今週もダメ、ということを繰り返してました。

ある時、テレビの何かの番組の中で、YouTubeで「ひたすらラーメンを食べてるだけの番組があります」っていうことを知り見てみると確かにありました。365日、毎日食べ歩きをしているYouTuberの番組で基本的に彼が気に入った、もしくは気になっているラーメン屋のみに出向き、実食しそれを流している番組でした。

多分、このチャンネルの過去動画を検索してみて、自分の住んでいる周辺で取り上げられた店をチェックして出かけてみたんです。そうしたら、はずれや微妙な店、普通に店もありましたけど、その中で当たりの1件が昨日、出かけて行った店です。

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虚空

私の場合、こってり豚骨の家系は苦手でどちらかというと魚介系とか味噌とか醤油ラーメンといった系が好きなのですが、ここのラーメンは結構、ど真ん中に近い当たりと思ってます。最初のころは頻繁にいってましたが、最近でも定期的に出かけるラーメン屋の1つです。虚空という店で煮干し系のつけ麺とラーメンを2本柱にしています。

夏場はつけ麺が主体、前回は煮干しラーメンを食べたことを思い出し昨日はパイタン麵の大盛のゆで卵付きを注文してみました。以前に食べたあの味と変わることなく同じようにとてもおいしく食べることができました。

YouTubeの番組でこの店を知ってから、それ以降、おいしそうなラーメン屋を探す他の方法として食べログも活用してます。

最近では、食べログのポイントが3.5以上を選択基準にしてます。このポイントは結構、味的に信頼できる所が多い印象です。但し、全てではないです。やはり、味の好みは人によって大きく違うので、人の評価がいいからと言って必ずしも、自分で食べてみておいしいと感じるわけではないようです。

事実、かみさんをこの店に連れて行ったのですが彼女の評価は、かなりいまいちでした。それ以降、ラーメン屋に同伴することはやめることにしました。

自分で好き勝手に行きたいところに行くことができるのでかえって良かったと思ってます。ラーメンの話は、今後、またおいしい店を発見したり、この場で共有したい情報があった場合は紹介していきたいと思ってます。

逆に情報があれば共有頂きたいところですね。それでは今日はこの辺でやめておきます。

3度もマイホーム買っちゃいました!(その2)

晴天の霹靂

この田んぼの中の住宅街のマイホームにずっと住むことになると信じてました。しかし、本当に人生は一寸先は闇とまでは申しませんが、色んな事があり楽しいです。絶対安泰と思っていた、会社のテレビ事業がおかしくなり工場を閉鎖することになったのが、15年ほど経ったときでした。

工場の閉鎖に伴い、工場勤務者は全て本社工場の横浜への転勤が決まり我が家も横浜に引っ越しすることにしました。人によっては、単身赴任したりしていましたが我が家の場合は、家族全員が田んぼの中の一軒家に未練がなかったのか、あっさりと全員で横浜に移ることになりました。会社近くのマンションを借り上げ社宅として契約してそこに移ることにしたのですが、田んぼの中のマイホームはそのまま残さざるをえなかった。とりあえず、不動産屋に売り出しを依頼して我が家は横浜に移りました。

やっと、マイホーム売れました

田んぼの中のマイホームを残して移らざるを得なかったのは、希望する価格では、売却することはできなかったからです。この時は、既にバブルは崩壊し日本全体が長―いデフレの時代に突入してましたから。それに一軒家っていうのは10年もたつと建物の価値はゼロで土地の値段だけになってしまうので、田んぼの中にあるような土地の値段は安いもので、結局、購入した時の1/3でも売れないような値段になっていたので仮に売ったとしても残債が残るだろうことが容易に想像できたからです。

結局、売れたのはどれくらいたってからだったろうか?10年まではいきませんが5年は確実に経過してました。その間、当然ローンは継続して支払っていたわけです。売却した時ちょうど、きっちりローンがゼロになる金額で、手元には一円も残りませんでした。ちょっと、寂しいですよね。約20年間もローンを払い続けた一軒家を売却して何ら残らないというのは。ちなみに、私たちの家を購入された方は定年退職され第2の人生をスタートされようとしているご夫婦でした。

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みなとみらい

3度目のマイホーム購入

他方、我が家が横浜に移って3年くらい経ったところで実はマンションを購入しました。借り上げ社宅として暮らしていた賃貸マンションがとても狭かったからです。田んぼの一軒家を経験して、さすがに一軒家の資産価値の低下ぶりに見切りをつけマンションを選択しました。

マイホームとして一軒家にすべきかマンションにすべきか、好き好きがあると思いますが今にして思えば、若いうちにマイホームを持つなら、断然マンションにすべきと後輩には勧めますね、きっと。
若いうちは会社の転勤をどうしても避けることができない、もしくは、職を替わるかもしれない、その際、断然マンションの方が売却する際の資産価値が維持されているはずです。
更に最近思うのは、新築ではなく中古を購入して、必要ならリフォームしたほうがよほど費用的に安く仕上がりそうだということ。新築はそれなりに広告費用がかかっていたり、新築という理由だけで価格を高めに設定されているからです。

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近所の風景

このマンションに移って17年になります。社宅からスタートして2件目は戸建てマイホーム、3件目は田んぼの中のマイホーム、横浜の借り上げマンションを経て5件目のマイホームになりますが、快適です。これまで何の問題もなく過ごすことができました。これで我が家の引っ越しも打ち止めということにしたいと思ってます。

いつの間にやら子供たちも結婚して自立し、かみさんと2人だけの生活になってました。そしてこのマンションが一番長く住んでいることになってます。

長らくお付き合い頂きありがとうございました。2回に分けて話してきたマイホームの話もこれでクロージングです。

 

3度もマイホーム買っちゃいました!(その1)

今日はまた、前回と全く別の話がしたくなり方向転換します。人生においてビッグイベントであるマイホームの購入についてです。

 

社宅からスタート

就職して初めて配属されたのが郊外にある事業所でした。テレビを作っていた工場です。町の商店やレストランが私の勤めていた会社の工場の恩恵を受けて成り立っているような町で、最寄りの駅まで車で30~40分くらいはかかり皆が陸の孤島と呼ぶようなところでした。一応、関東地方ですが。

工場に配属されて、社宅に入ることにしました。工場から自転車で10分程度のところにあり当時としては鉄筋3階建てで、それなりに立派なものでした。多くの家族持ちの社員は、その社宅を利用していたので私も漏れずに利用しました。家賃が1万円そこそこなので、皆さん、ここで数年間頑張ってお金を貯めて家を建てて出ていくという人が多かったですね。

私も皆さんに習い、マイホームを持てるように蓄えを行い確か7年目位に家を買う事にしました。当時はちょうど、タイミングが悪くバブル期で家の値段は上がる一方の時期でした。郊外の小さな駅の近くと言えども、サラリーマンが購入できないような値段の物件が多い中で、運よくそこそこの物件を探すことができました。

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マイホームのイメージ

初めてのマイホームが・・・

町の小さな不動産屋が仲介する物件で、既存の住宅街の空き地に建てられた新築2階建てでデザイン的にも小ぎれいで私もかみさんも、すぐに気に入ってしまいました。駅から歩いて10分くらい、会社まで車で40分程度、周囲は住宅街、日当たりは悪くないということで、早速契約です。頭金は確か1割程度用意したはずです。

 

ところが、住んでみて初めて大きな落とし穴に気づきました。具体的には割愛しますがかみさんが拒否反応を示し、出ていかざるを得なくなりました。

 

購入元の不動産屋に相談したところ、幸いにして新たな居住者を見つけてくれました。他方で次の新居を探すことになったのですが、たまたま家の中で新聞を整理していた時、そこに広告として住宅の売り出しを見つけたんです。公団が手掛ける新興住宅地のようで多くの住宅の売り出しが掲載されており、よく見ると締め切りが迫っていました。早速、現地に行ってギリギリセーフで応募したところ、運よく抽選にパスして新居を入手することができました。

 

田んぼの中のマイホーム

もうお分かりのように、最初に住んでいたところから新たなところに移る過程で、最初のマイホーム用の頭金に相当する程度の費用がかかりましたが、背に腹は代えられないと考え移り住むことを決めました。

 

ここでの教訓は、家を購入する場合に、駅からの距離、会社までの通勤時間は調べますがそれ以外にも調べないといけないことが色々あるということでした。考えてみれば当たり前かもしれません。一生になるかどうかはともかく長期間に渡ってそこで生活を営むわけですから、家の日当たりは当たり前の話として隣近所にどんな人たちが住んでいるのか、事前に挨拶をして話してみるとか、その他、スーパーや病院の場所、子供がいる場合は学校までの通学時間と通学ルートなど、実際に生活することを想像し、そこで必要となる事柄に対して事前に調べることが必要だということです。また、朝、昼、晩に訪れてみる、それを繰り返してみるなども必要です。

 

新居は周りが田んぼのようなところでしたが、周囲一帯が大きな新興住宅地ということもあり、皆さん同じように新たに引っ越してきた人たちがほとんどということから付き合いやすい人たちも多く、住みやすいところでした。難点は最寄りの駅まで徒歩で30分ほどかかること、小学校まで子供の足で40分くらいかかるということ、ただ学校へは通学専用のマイクロバスが出るようになったのでそれは救いでしたが。

子供たちにとっては、自然豊かな環境の中で仲のいい友達と学校生活を楽しむことができたと思います。毎年、運動会のシーズンになると弁当持参で校庭のトラックの外側に皆ビニールシートを敷いて応援、さらにその外側には縁日さながらの屋台まで並びました。

 

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運動会のイメージ

この続きはまた、次回とさせてください。次回はこのマイホームを手放さざるを得ないというところから続けます。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

うん十年ぶりのプログラミング!

何回か、昔話をしてきたんですがちょっと飽きてきたので一時中断して全く別の話をします。こういうのっていいですね。勝手に方向修正が効くのって。

 

実は今年に入ってからプログラミングを始めたんです。とは言ってもアセンブラではなく今時のPHPとか言うサーバ上で動かして端末のブラウザと通信して、最終的に端末のブラウザ上でHTMLに展開されて動くっていうものです。

 

幸いにして今担当している仕事の中で、特に私の担当ということではなかったんですけど、比較的手が空いていたということ、それと今後の事を考えるとプログラミング言語1つでもできるようにしておいた方がいいんじゃないかとの考えもあり、半ば無理くりやらせてもらう事にしたんです。具体的なことは話せないですが、サーバ内のSQLにあるデータを検索して表示させるという恐らく、慣れている人が書けば1週間くらいでできてしまうであろうレベルのものだと思いますが、数十年ぶりに書く私にとっては、大変でしたよ、それは。

 

超入門クラスの本を買ってきて読みました。読んでいるうちにHTMLも知っていなければできないということを知り、同様レベルのHTMLの本を買ってきて、これも一通り読みました。

 

読んだはいいけど、何をどう書き始めたらいいのか、分からない、ということで、今度は、自分がこれからやろうとしていることに多少、触れている本格的な入門クラスのPHPの本をまた買ってきました。そして、そこに書かれているプログラム例を参考にしながら、少しずつ継ぎ足してプログラムを書き始めていきました。

 

きっかけができて書き始めたはいいんですが、次から次へと疑問が生まれてくるんですね、これが。本当に次から次へですね。ほとんど、本には書かれていなかったですね。

 

いくつか思い出せるレベルで例を挙げると以下のようなことがありました。以下、ちょっと、テクニカルな内容を書きますので、興味がない人は読み飛ばしてください。

 

1.プログラムの動作確認、デバッグ方法が分からない。

2.ボタンを押した後のプログラムの流れが分からない。

3.スタイルシートCSSを修正しても、画面に反映されない。

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近所のテニスコート

 

1.ですが、PHPは先の通りサーバ上で動くソフトですので、本来はサーバを用意する必要があるのですが、そうしなくても開発できる仮想環境を提供してくれる開発キット(ソフトウェア群)があります。MAMP https://www.mamp.info/en/windows/

と呼ばれるものでこの中に、Apache ServerMySQLPHPがオールインワンで含まれています。この環境で開発を行った後に、開発を終えたソフトウェアをサーバに載せるだけで、そっくりそのまま、ソフトウェアが動きます。厳密にはソフトウェアの格納先を指定するURLの変更とSQLを使う場合は、SQLのアクセス先を変えるだけで使えるということを知りました。

 

デバッグPHPフォルダ以下のphp.iniという設定ファイルの中の設定でdisplay_errors = onとすれば、エラーメッセージを出力してくれるのでこれを見ながらデバッグします。逆に=offとすればエラー出力を抑制することができます。

デバッグのもう一つの道具は、プログラムの中にデバッグ用の表示出力を仕込んでおくという方法です。以下の3つの方法を知っていれば完璧です。

①現在のファイル名と行番号表示する

echo "ファイル名:".__FILE__." 行番号:".__LINE__."<br />";

②変数の中身を表示する

var_dump(変数名);

③改行 echo "<br/>\n";

私の知ってるマイコンソフト開発では、ブレークポイントとかステップ実行などの手段が用意されていて、デバッグしたんですけど今は違うんですね。そんなに便利じゃありませんけど、お金をかけなくてもできちゃうんですね。

 

2.ですけどHTMLの記述で、キーを押した場合のアクションの記述ですが

  <form method="POST" action="遷移先ファイル" >

とか書きますが、結局、「遷移先ファイル」を指定すれば、そのファイルの頭に飛びますけど、何も書かないと結局自分自身(今、動いているファイル)の一番頭に飛ぶんです。自分自身の頭に飛ぶと、設定した変数値は全て初期化されてしまうんです。このことを知らずに苦労しました。こんなこと、本には書かれてないですから。

 

3.も訳が分かりませんでした。何度CSSの設定変更をやっても、一向に表示が変化しないってどうして? 「chrome 設定変更が画面に反映されない」と入力してネットで検索したら一発でした。chromeは設定内容を内部に保存していて、保存内容をクリアしてやらないと表示が変わらないことがあるらしいのです。

 

ブラウザ画面でマウス右クリック→プルダウンメニューから「検証」選択→開発者モードが表示される→画面上のリロードボタン(丸に矢印がついてるボタン)を右クリック→プルダウンメニューから「キャッシュの消去とハード再読み込み」で解決。

 

ちなみにIEインターネットエクスプローラ)の場合はCSSを修正するとちゃんとそれを反映してくれるということを後から知りました。

 

課題が発生しては、潰して次に進めるの繰り返しでした。その中でプログラミングの進め方は、小さく作って動作確認してOKなら正式に取り込むを繰り返すことによって徐々にやりたいことを実現していくというアプローチなんだということです。結構、肝になることなんじゃないかなって勝手に思いましたね。

 

また、今回のプログラミングを通して学んだことは「今の世の中、ネットから情報を引き出せば大方の事は解決できる」ということです。しかし、そのレベルに到達するまでの土台となる知識が必要なので、私の場合、本を必要としました。

 

というわけで何はともあれ一通り動かすことができました。

5月のゴールデンウィークから始めて、プログラミングを開始したのが7月、まともに動き出したのが8月、一通りできたのが8月末って感じです。プログラミングまで2か月、プログラミングで2か月、合計4ヶ月って感じです。

北米上陸?

苦労して初めて本格的に作ったソフトウェアがUS向けのテレビに搭載されて販売されました。それが、そこそこ評判が良かったらしく販売台数やら売上増やらに貢献できたらしいという話を聞き、先輩諸氏の苦労も知らずに自分の成果と思い込んでいたように思います。若さゆえの単純さに許してやってください。

気をよくした事業部内の企画やら営業部門の方々に加え、技術部門の上の方々は、2匹目、3匹目のドジョウを狙うべく、次の年、また次の年と改定バージョンの製品投入を試みます。

そんなこんなで、私は、2匹目のドジョウを狙うべく指示を受け、先輩とこともあろうか、北米の当社工場に企画会議と称して出向くことになったんですね、これが。

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アメリ

初めての海外出張、それも、その時何故か一人で現地入りすることになり、ジョンFケネディ空港でしたっけ?に着くまでの約10時間、飛行機の中で眠ることもできないほど緊張しまくっていたことを思い出しますね。

「空港に到着してから、荷物をもらって、税関を通って、入国審査?」「入国の目的は?」「滞在期間は?」とか聞かれたときに英語ではなんていえばいいんだっけ?

「入国審査を終えると、ロビーで会社の人がプラカードを持って待っているから」とか言われてましたけど、「関係ない人がプラカードをコピーして君の名前を掲げてるかもしれないから、十分気をつけて」「ついていくと身ぐるみはがれることもあるから」なんて脅しの言葉を事前に言われてましたから、びくびくでした。

着いてみると言われた通り私の名前を掲げた人が手前にと奥のほうに2人いました。

どっちが正解?! なんて経験もしました。

その時の仕事の内容はほとんど覚えていないのですけど。

夕食に誘われ、日本から出向している営業担当の方を含め数人で車でレストランに向かい、車を降りたとたん警官が何かを言いながら拳銃をもって近づいてきます。

私にはわかりませんでしたがどうやら、不審者と思われ「直ちに手を上げろ」と言っていると言われ、言われるがまま、訳もわからず手を上げました。その後どうなったか覚えていないのですが、「すぐに手を上げないと本当に撃ってくるからやばかった」らしいのですが、そうはならなかったので、事なきを得たのだろうと思います。

また、企画会議が終わりニューヨークで一泊延長して、ブロードウェイでも観て帰ろうということになりました。先輩と2人でニューヨークの街を何気なく歩いていると、黒人の方が、普通に前方から歩いてきて、僕の肩口に触れたかと思ったら、彼が手にしていた紙袋が地面に落ちたらしいんです。中にはワインが入っていて割れてしまったから50ドル払えと言っていたようです。当時の私には聞き取れませんでしたけど。一瞬何が起こったのか私には理解できないほどでしたけど、先輩は、50ドルじゃなくて15ドルじゃないのって、価格交渉をはじめるから感心しましたね。ただ。それ以上、深入りするのはやばそうでしたので言われるままに50ドル払いましたけどね。

作ったソフトウェアが製品に

最初は、先輩が書いたプログラムを理解することから始めました。はっきり言って大変でした。アセンブラですから。アセンブラって今では、ほとんど使われていないでしょうけれど、当時の組み込みマイコンアセンブラでのプログラミングが主流だったと思います。

アセンブライコールマシン語ですからね。アキュムレータ、レジスタ、I/Oポート間でのデータ転送やら演算やらを行いながらすべての制御を行うんですけど、たいしたことは行ってないんですけど、すぐに行数が膨れ上がるんです。いかんせ、1つの命令で

できることが知れているので。そんなプログラムを1か月とか、時間をかけて解析して理解するところからでした。それは根気の要る作業でしたけど、決して嫌なことではありませんでした。

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さすがに1か月とかかけて、四六時中プログラムとにらめっこしているとプログラムの全体像が理解できるようになってくるわけですよ。そうすると、今度は自分でプログラムをいじってみたくなるんです。

先輩の書いたプログラムを参考にしながら、自分で修正を加えたりしてみるわけです。

今覚えているのはDEC社のDEC-11ていうミニコンがありまして、この上でクロスコンパイラーなるものを会社の人が作ってくれてそれを使って、アセンブラで書いたプログラムをマシン語に変換してくれるんです。そして変換されたマシン語をROMにそれを書き込むんですね。要は、作ったプログラムをROMに格納して、それをマイコンに読み込ませて実行させるためのシミュレータっていうツールが用意されてましてそこにダウンロードして実行してみるわけです。

はっきり言って、最初は、ちゃんと動いてくれませんが、ブレークポイントを立てたり、ステップ実行したりしながらデバッグして1つ1つ問題を解決しながらまともに動くようにしていくという、いわゆるマイコン開発のプロセスみたいなものを学ぶわけです。自分が書いたプログラムが期待する通りの動作をしてくれた時は、うれしいものですね。その瞬間のうれしさを求めて、プログラミングってやったものです。

そんなことをやりながらマイコンの勉強をしているうちに、初めて本格的なソフト開発の話が出てきたのがUS向けのテレビに搭載するマイコン開発の話でした。

先輩は国内向けのソフト開発で手が回らないため、私が対応することになったように記憶しています。技術的にもUS向けのテレビは、国内向けと異なる制御が必要とされていましたが、必ず計画通り開発を進めるとの強い思いをもって臨んだように記憶しています。

開発の過程では、ソフトウェアの設計もさることながら、マイコンメーカーにおけるマイコンハードウェアの設計に難航し当社の製品日程に影響を与える危惧もあり両者で協力しながら、何とか難局を乗り切ることが出来ました。

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この開発を経験して、何とはなしに、自分で何とかやっていけるのではないかといった自信がついたように思います。結局のところ、苦労して1から始めて全てを経験してみて初めて、開発業務の全貌を理解することができ、そこで自分としてやりきることが出来たからと思います。とはいっても、今にして思えばですが、おそらく実態としては、私を取り巻く先輩諸氏の一方ならぬバックアップがあったんだろうなと思ってはいます。そんな意味で先輩諸氏には感謝しかありません。

ちょっと、疲れてきたし、夜も更けてきたのでこの続きはまた次回とさせてください。

どうしてエンジニア?

前回も書きましたが、さしたる志があったわけでもなく家電メーカーを就職先としたのですが、そもそも、大学で学んだ学科がそのような学科だったんですね。その理由はともかく、学部、学科を絞り込んでいく中でたどり着いた学科だったんですね。

 

学生時代は勉強もそこそこに、かといって何かに夢中になっていたわけではないんですが、何故かプログラミングは、それなりに楽しさを感じることができたということもあり、その方向で就職先とその中でのプログラミング担当を希望しました。

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単なるイメージです

希望がかない配属されたのがテレビを製造販売する事業部でした。そこで私の担当はテレビに組み込まれてテレビの回路を制御するためのマイコンの設計でした。まだテレビにマイコンが搭載されて間もない時期で、1人で1つのモデルのマイコンの設計を担当する体制でした。といっても、私と同じ担当は、他にもう一人、私より5年先輩の人がいただけです。

 

ですから、大げさな話、2名で全世界夫々の地域毎のテレビに搭載するマイコンの設計を担当しました。とはいっても、テレビのモデル数に比べて、搭載するマイコンのラインナップは、かなり集約されてましたので何とか対応できる作業量であったと記憶しています。

 

学生時代は、技術計算を行ったりシミュレーションを行ったりするためのソフトウェアは理解していましたが、機器を制御するためのマイコンという概念は全くなかったため、最初は、ワンチップマイクロコンピュータの概念を理解するのにとても苦労していたように記憶しています。

 

なかなか、人には聞きづらいですよ。「マイコンの概念がわからない」「どうしてマイコンでテレビが制御できるのか」とか仮に聞いたところで期待する答えが返ってくるようにも思えない。

 

ひたすら調べまくりました。インターネットなんてありませんでしたから、本屋に行ったり、図書館に行ったりして調べまくり、他方で会社では、実務で使用するマイコンのマニュアルを読み込む日々。こういう時は、自分で納得できるまでやることですね。

 

そんなことで日々を費やしている中で、実務でもマニュアル読みから、実際にプログラムを書いて、動かしてみるようになります。そうこうしているうちに、自分で悩んでいたことがいつの間にか消えていったことに、気が付く、といった感じでしょうか。

 

これって、おそらく、どんな技術や新たな概念に対する理解を行う上でも同じようなプロセスを通るのではないかと思います。

 

ちょっと、長くなってしまったので、続きはまた、次回書きます。